火の山のマリア

わたしは、この熱い大地から生まれた。

グアテマラ、火山のふもとに暮らすマヤ人のマリア。 自らの運命にあらがう魂は、やがて新たな生命をはぐくみ、 聖なる大地に祈りを捧げる―。 それは、太古の記憶を呼び覚ます、大いなる「生」の物語。

2016年9月2日(金)DVDリリース&デジタル配信スタート

INTRODUCTION

 南米作品が豊作だった2015年ベルリン国際映画祭で新たな才能が誕生した。初長編『火の山のマリア』が銀熊賞(アルフレッド・バウアー賞)に輝いたグアテマラ出身のハイロ・ブスタマンテ監督である。その世界的評価を受けて、『火の山のマリア』はグアテマラ史上初の米国アカデミー賞外国語映画賞へのエントリーを果たした。監督が題材として選んだのは、自身が幼少期を過ごしたマヤ文明の地で力強く生きる先住民たち。現地の人々を役者として起用し、グアテマラが抱える社会問題を取り入れながら、ドキュメンタリーのような臨場感を持つ力強い母娘の物語を作り上げた。

 映画の舞台は古代マヤ文明の繁栄したグアテマラの高地である。火山付近の肥沃な土壌で農業を営み、土地の神への感謝と畏怖を忘れない先住民たちは、昔ながらの習慣や伝統を守りながら慎ましく生きている。だが、その若い世代はアメリカ文化への憧れを持ち合わせ、昔ながらの生活にも近代化の影響が見え隠れする。そしてスペイン語を理解できない主人公一家は充分な福祉を受けることもできず、ある事件へと巻き込まれていく。そこには、監督が実際に取材して知り得た事実が盛り込まれ、矛盾を孕むグアテマラの今が浮き上がってくる。

 南米メキシコの南に位置し、国土面積は北海道と四国を合わせた広さより少し大きい108,889㎢。日本と同じ火山国で、地震も多く、温泉もある。気候は暑くも寒くもなく、一年中過ごしやすいため「常春の国」と呼ばれる。人口は約1547万人(2013年)。そのうち46%を本作の主人公でもあるマヤ系先住民が占めているが、社会の末端に追いやられ、教育や保健医療といった基本サービスの利用も制限され、貧困率は80%にも上る。また、国民の約1割(150万人以上)が米国に移住し、海外送金が貧困地域の家計を支える。日本とは伝統的に友好関係を築き、2015年には外交関係樹立80周年を迎えた。

STORY

 17歳になるマヤ人のマリアは、火山のふもとで農業を営む両親と共に暮らしていた。過酷な自然に囲まれたその生活は極めて原始的な暮らしであった。

 借地での農業は家族を経済的に圧迫していた。農作物が収穫できなければ追い出されてしまうからだ。そこでマリアの両親は、土地の持ち主でコーヒー農園の主任であるイグナシオにマリアを嫁がせようとする。妻に先立たれたイグナシオは3人の子どもたちを男手ひとつで育てていた。

 しかし、マリアはコーヒー農園で働く青年ペペに惹かれていた。アメリカに行くというペペに、マリアは一緒に連れて行ってほしいと頼むが、彼は彼女の処女を捧げることを条件とした。控えめで真面目なマリアは悩んだ末にペペに身を任せてしまうが、ペペは一人で旅立ってしまう。

 一方、両親や村人たちの農場では蛇の被害に悩まされていた。強力な農薬も効かず、みんなは頭を抱えていた。

 そんなときにマリアの妊娠が発覚する。堕ろすこともできず途方に暮れるマリアだったが、「この子は生きる運命だ」という母フアナの言葉に力付けられ産み育てることを決意する。果たして、マリアと赤ん坊の運命はどうなるのか…?

PRODUCTION  NOTE

 『火の山のマリア』のストーリーはまず、プロデューサーと監督の密な関係によって生まれた。製作会社であるLa Casa de Productionはグアテマラの高地パナハチェルにあり、その住民の大半はマヤ人という土地柄だ。

 消えゆくマヤ人コミュニティーと、それらを無視する周囲の社会を目の当たりにし、『火の山のマリア』は、マヤ人の暮らしをさらに広い世界へと伝える為に描かれた。

 製作当初から、我々はマヤ人のコミュニティーと親密な関係を持ち、表現についてのワークショップを行った。グループに分かれて社会問題や演劇、映画について語り合い、参加者は次第にこの映画の本物の役者としての顔を持つに至った。

 このプロセスによって、我々はマヤとメスティソの間で文化や役割分担の共有だけでなく、互いの言語を学び合うという恩恵を受けることが出来た。

 そして、この多国籍プロジェクトでは、我々がフランスとグアテマラの文化を互いに広め合うのにも多いに役立った。

 この製作過程は、ワークショップ参加者が従事するコーヒー・プランテーションを突然襲った(植物の)病気によって加速されることとなった。彼等の負担を少しでも和らげるため、我々は私的な資金集めを増やし、収穫期に撮影出来るよう予定を早めた。

 おかげで、彼等にいくばくかの臨時収入を提供することができ、地域経済にも貢献出来たと思う。

 このプロダクションは、チーム全体に潤いをもたらした。我々はこのかけがえのない経験を、この映画を通じてもっと世界中に広げて行きたいと思っている。

CAST&STAFF

グアテマラ、サカテペケス県出身。9人兄弟の下から3番目の子ども。マリアは家族の中で学問教育を受けた最初の世代である。幼い頃から彼女は学校に通いながら、父の野菜や果物の農園を手伝い、母が働く市場に出て売り子をしていた。成人する前には労働の責任や接客を習得し始めていた。その一方、学校では芸術活動への興味が目覚めた。学芸会での「白雪姫」が初めての芝居だった。それから、マリアは校内の全ての文化イベントに参加した。成長した彼女は地元のミスコンテストに出場した。こうしたイベントは彼女が住む地域とは離れたメスティソの領域で行われるため、彼女は人種差別にも直面した。しかし、彼女はめげず自分の心に従った。キャスト選定段階で、彼女は『火の山のマリア』の脚本に出会い、見事主演女優に選ばれた。若いマヤ人の少女を演じるにあたり、彼女自身も差別の犠牲者であったことは重要だった。

マリア・テロンにとって、演じることは彼女が持つ全ての力を発揮する方法である。幼い頃から、この力が彼女を捉えていた。マリア・テロンは早い段階で4人の子どもを抱えて未亡人となった。この経験が彼女の中の女優を目覚めさせた。マリアはマヤ人やグアテマラの女性たちの問題を取り扱う劇団に参加し始めた。彼女の才能は出演が増えるにつれて知られていった。街の広場や都市の劇場を行ったり来たりしていた。様々な演出家の指導のもと、彼女は女優としての名前を確立していった。映画へ出演するという冒険はフリオ・ヘルナンデス監督の『Polvo(Dust)』から始まった。街の教会のアトリウムでの演技が目に留まり、マリアは『火の山のマリア』へ出演することとなった。脚本は彼女の演技プラン通りの台詞に書き換えられた。

1977年 グアテマラ生まれ。コミュニケーション学を学んだのち、大手広告会社でCMを監督。パリ、ローマでも映画制作を学んだ。フランスのクレルモンフェラン短編映画祭で『Cuando sea grande』がCNC賞を受賞し、フランス、スウェーデン、ドイツのテレビで放映された。また脚本を手掛けた『El escuadron de la muerte』はサン・セバスチャン国際映画祭を始めとする各国の映画祭に正式出品された。『火の山のマリア』は彼の長編デビュー作である。


2006年『Todo es cuestion de trapos』(短編)
2009年『Usted』(短編)
2010年『Au détour des murs, les visages d’une cité』(ドキュメンタリー)
2012年『Cuando sea grande』(短編)
2015年『火の山のマリア』(長編)